十年過ぎれば進歩する 
  年寄りのあかし 
 思い出話を語るようでは年寄りになった証拠だ と私も昔はよく言ったものだが
最近、私の口から出てくる言葉は「私の若かった頃は……」と前置きした話が大きくなって来た。
 十数年前までは、家内のそばにいると何だかんだとチョッカイを出すものだから
うるさがられて
 「うるさいから外で遊んでいらっしゃいよ」
 と言われたのに、近頃は私も人畜無害となり、手も足も出さず静かな夜を過ごすようになってしまった。
 こうなると女房というものは逆に亭主を手元に引き寄せて置きたくなるものらしい。
 「しばらく遊びに出ていないから一週間振りでちょっと出かけてこようか」
 と思っただけで 家内は私の素振りを察し
 「あなたは家にいるのがそんなにいやなの!」
 とイヤミを言われてしまう。 機嫌のよいときは
 「あなたは遊んでいるときは生き生きしてくるのに、遊ばないでいるとしおれてくる人なのね」
 と言ってくれるのに……。まあ十年位前までは毎日のように、業界の会合だ、法人会の集まりだ、得意先との付き合いだ、仲間との飲み会だ、その間にゴルフが入ったりで全く忙しかった。
 十数年前の手帳には 毎夜の予定が書き込まれてあり、二日続く空白はほとんどない状態であった。まあ私は酒をあまり飲めなかったので体が続いたのだろうけれど、家内は
 「あなたは家庭を全く顧みることなく遊んでいたのよ。私が子供三人抱えて、どんな苦労をしていたか、全然、分かってないでしょう」
 と言うのだが、この手帳を見る限りでは家内の言う通りだったかもしれないと反省しきりなのである。
  
バッタリ会ったは昔の仲間 
 二十年も昔の話であるが、目黒の権之助商店街で立野君と、パッタリと出会った。彼も一杯機嫌である。
 「山崎さん、この時間に会うのは久し振りですね。一杯飲ませて下さい」
 「おう、いいだろう。君と飲むのも十数年振りになるだろう。じゃ、ロンリーへでも行くか?」
 ロンリーとは我々がよく集まるカラオケスナックである。彼の話ではロンリーへは彼もちょくちょく行くと言う。私は昔はよく行った店なのだが最近は二ヶ月に一度行く位でご無沙汰している。だがロンリーは開店して七年位になる筈なのに今まで、彼とは全く会わなかったというのも珍しい。
 彼とはボクシングの西城正三がフェザー級で世界チャンピオンになった時、地元の後援会を一緒に作った仲間である。目黒の野口拳闘クラブが昔、近所の子供達を集めてベビーボクシングなるものを始めた。西城正三もそのメンバーの一員であったが彼のみがプロボクサーとなり、ついには世界を制するまで成長したのである。西城は小学校三年生であったが二十数名の児童の中で一頭地を抜いて強かった。小学校の六年生でも敵わなかったそうである。
 その一緒にベビーボクシングをやった悪童どもが、西城がプロボクサーとしてデビューした下積みの頃から応援団を作り、心の支えとして声援し続けて来たのである。
 立野はその応援団の団長格であった。協栄ジムがアメリカのボクシングジムと交換選手の契約を結んだとき、西城正三は交換選手第一号に選抜されて、兄の正吉と共にアメリカへ渡り、貧民街で食うや食わずの苦しみの中で技術を磨いたのである。幸運にも西城正三がアメリカでフェザー級のチャンピオンとなって日本へ帰って来た時、この応援団が中心となって地元の後援会を作りたいとの相談を受けた。私の親友の高久が立野を弟のように可愛がっていたのである。
  
そこまでやるか? 
 私も当時、三十八・九歳の頃であったが、高久の相談を受けて二十六歳の立野を会長として、若い応援団の連中、三十数名を中心に我々の年代以上の六、七十名がバックアップをするという後援会を結成した。私が副会長におされ、第一回の日本武道館での防衛線はもとより、札幌、宇都宮、仙台等、日本全国の防衛戦にはついて回った。
 当時は今と違って、日本のボクシング業界が全盛であった。世界防衛戦の調印式の立会いにも呼ばれ、その後のレセプションなどにも我々後援会の役員は招待を受けた。そして我々にまで新聞記者やテレビアナからインタビューを受けたりして、それは華やかなものであった。
 だから政治家や、多くの金持ちの人たちから高額の寄付金と共に後援会入会の申し込みがあったが、高額な寄付を受けると会を牛耳られてしまうと一切拒否し、全員一律の会費と手弁当で後援会を運営した。地元の後援会ということで、
中心となっている若い会員達がどうしても「俺たちの西城」と言う意識が強かったのである。
 タイトル防衛戦も東京の武道館や日帰り可能な場所ならよいのだが、札幌となると航空運賃に宿泊費が加算されるから若い人たちには負担しきれない。
 チャンピオンの方から後援会の会員用に五十枚ほどの指定席券が回ってくる。
当時は間違いなくプレミアがつくのだ。この無料で頂く指定席券を我々がダフ屋となって大半を売却して若い人たちの費用の足しにするという離れ業もやった。
 どうせ東京から行く会員は派手なハッピを着て通路に立って、会長の立野が応援団長よろしく行うリードに合わせて応援するのである。席になど座ってはいられない。券を買って指定席に座ってくれた人には、用意してあるハッピを着てもらって、我々と一緒に応援していただいた。そしてほとんどの人が記念にと、そのハッピを買ってくれたのであった。Tシャツまでは作らなかったが、ハチ巻の手拭等のグッズの販売は我々が先鞭をつけたのだと今でも自負している。
  
カラオケと後援会 
 後援会を解散してからはこの十数年位、昼間顔を合わすことがあっても夜一緒に酒を飲むと言うことは途絶えていたのである。
 ロンリーで華やかだった昔の話をしながら気持ちよく酒を酌み交わし、いつものようにカラオケとなって、私が二曲ほど唄い終わると立野が不思議そうな顔をしながら私に
 「山崎さん、ずいぶん上手くなりましたね。以前の山崎さんとはとても思えないですよ」
 私は、彼が私におごってもらってのお世辞にしては、不思議そうな真面目な顔が気になった。又、立野はこんな場所でおごって貰った位で心にもないお世辞など言うような男ではない。
 「え?  え? ?……」
 「いや、以前の山崎さんは、これでよく唄うなと思うほど下手でした。それなのに歌になると、俺が唄う、俺が唄うと前へ出て行ったのに……。あの当時から比べたら全く雲泥の差で上手くなっていますよ」
 俺が唄う 俺が唄うという場面では両肘を張って、肩をゆすって人を掻き分ける仕草をするのである。いや全く参った。これだけ面と向かって、はっきり言われたのは家内以外初めてである。
 思い起こすと、丁度その頃であった。自惚れが嵩じて自分の唄う歌を始めてテープレコーダーに録音して聞いてみたのである。自分では鶴田浩二にそっくり、フランク永井にピッタンコで唄っていると思い込んでいたのに似ても似つかない。似つかないどころか特徴を真似している積りのところが変な癖となっており全く聞きづらいのだ。
 これでは今迄、自分では気持ちよく唄っていたが、ずいぶんと回りの人を苦しめていたに違いない。
 会社の宴会などでも私が
 「次は俺が唄うぞ」
 と言うと、社員達から
 「社長、本当に唄うんですか?」
 「社長、又、唄うんですか?」
 と言うのだ。私は顔に出さずとも(出ていたかも?)腹の中では
 「上手く唄っているのに、からかいやがって、身内の評価は厳しくて面白くない」
 と思ったものだが、これでは、からかわれる筈だ。私は自惚れも自信も喪失、一年位マイクを握らなかった時代があった。
 然し、世の中にカラオケなるものが定着してくると、酒の飲めぬ私には唄わないより唄った方がより楽しいのである。唄う以上、下手より上手い方がより楽しいに決まっている。だから回りの人を苦しめる悪い癖だけは何とか直そう。一念発起して、この十数年、涙ぐましい、血の滲む努力を積み重ねてきたのである。
  
十年過ぎれば進歩する
 「そりゃ、十年一昔と言って人間十年以上過ぎれば進歩するものさ。そういえば正男君だって昔はケンカ早くって、どうしようもなかったのに、この頃は全くケンカをしなくなったそうじゃないか」
 「ええ、私もいつの間にか三人の父親になってしまって、それも長女が中学三年生ともなると、もうケンカをして歩く歳じゃなくなりました。昔みたいに意地張って、ケンカに勝っても得にならないと言うことが、やっと分かってきましたよ。この頃は頭を下げて済むことでしたらサッサと頭下げてしまいます。もっとも、この辺りでは私に言いがかりをつけるものはおりませんがね」
 立野はボクシングでは大成できず、コックを修行して親のレストランを引き継いでいるが、ことケンカにかけては世界チャンピオン以上に強かった。 私は以前、
ある地方に出掛けた折、タチの悪い男五人とイサカイを起こし、その大きな男五人をアッという間に殴り倒したのを目にしたいるのだ。
 然し彼は私に、ずいぶんと言いにくいことをハッキリと言うものだ。だが彼は悪意を持って言っているのではないことは充分に理解できる。私は彼と飲んでいるうちに、他の誰に褒められるよりも、純な彼に褒められたことが、この十数年の苦労が報われた?と感じ、腹の底から嬉しさが込み上げて来たのであった。
                                (平成17年2月記)