女性に言わせると、男として一番好ましい状態は、相当遊んでいるように見えるのに実際には遊んでいない男だそうである。この逆になるとタチが悪い。堅い、真面目だと思っていたら陰では相当な遊び人だったなどという話は世間によくある話である。 「あなたは意外と真面目なのね。だいたい芯が堅い人なんでしょうね。」
これは機嫌の良いときの評価である。ところがこれで安心して遊びが過ぎ、帰宅の遅いのが続くと
「あなたは家庭を何だと思っているの! 単なる寝る場所と考えているのなら結婚などしなければ良かったのよ。何も私はあなたが浮気をしているなんて思って言っているのではないわ。大体、父親のいないのが当たり前という家庭の雰囲気が子供を非行に走らせるもとなのよ」 こうなると私は専らダンマリ戦術である。 クチではとてもかなわない。負けるのが分かっていればまず防衛手段を講ずるより仕方がない。 ところが彼女は腹を立てると、よくもまあクチが回るものだと呆れるくらい言葉がポンポンと飛び出してくる
「何か言ったらどうなの! あなたは都合が悪くなると、いつもダンマリで何も言わない。そんなの卑怯よ」
と、こうである。結婚して三十年近い。何回も聞かされていると自然に覚えこんでしまう。帰りの遅い日が続いても
「浮気はしていない。女房を裏切る行為がない」
と自分に信念があると、自然と態度が大きくなるらしい。男とは純情な動物であるようだ。それが家内にはカチンと来るらしいのである。
私は世帯を持って以来、浮気をしているのかしていないのか、しているようにも見えるけど、どうも本当はしていないようだ、という状態を保ってきた。バーのマッチやキャバレーの名刺は全部持ち帰って家内に大事にしまっておけというのである。しかし後で出して見せろとは言わないから、彼女はハイハイと言ってはいるが適当に処分しているようである。外でモテたときは大変機嫌が良い。手土産などブラ下げて今日はモテたモテたと大ハシャギである。しかし調子に乗れないときには全くモテないこともあるのだ。そんなときは、家に帰っても何となく浮かない顔をしているようだ。
「あなた、今日モテなかったんでしょう」
すぐ家内にバレてこう言われる。
私のカラキチが始まって早いものでもう二十数年になる。街にカラオケスナックなるものが現れた当時は8トラのテープ三十本、一本に四曲だから百二十曲が普通で、五十本も置いてあると
「あの店は二百曲もあるぞ」 とビックリしたものだ。
その中ではレパートリーも少なく自分の得意と称するものはせいぜい四、五曲程度であった。又、その頃は唄いたくて唄いたくて仕方がない。
自分の持ち歌を一通り唄い終わると、どうも落ち着きがなくなる。同じ歌を唄ってはいけないという決まりはないが、どうも気が引ける。仕方がないから次の店へ走り、又、同じ歌を唄うのである。こうし
て私のハシゴが始まった。酒のハシゴでなくカラオケのハシゴである。十二時を過ぎて、弾き語りのいる店ともなれば帰りは当然二時を過ぎてしまう。毎晩ではないが外に出れば必ずこのコースであった。これではいくら我慢強い私の家内でも怒るはずである。安い店で遊んでいるのだといっても、金の問題ではないといわれるのも無理はない。
自宅にカラオケセットを置きたいと言い出したとき、家内が即座に賛成してくれたのは
「好きな道楽を家でやるなら文句言わないわ」
ということであった。ところが家では一人で唄ていてもちっとも面白くない。聞き手がいないからである。嫁に行った娘はこんな父親を馬鹿にして全く聞きに来ない。当時高校生の下の娘は、それでも三曲ほど我慢して聞き
「お父さん、大分うまくなったわよ。 わたしは勉強がありますのでこれで……」
とかうまいことを言って逃げてしまう。最後に頼りになるのは家内だけである。だから家内は専ら評論家である。 もっとも当時の私の専属評論家を務めたら実技をする気がなくなるのは仕方のないことではあったが……。
「これはあなたに合わないから唄わないほうがいいわよ」
「この歌はあなたの声の質に合っているわ。 だけどもう少しこぶしをきかした方がいいわよ」
とか言ってくれるが、概して甘い感じのムード演歌は駄目といい
「この歌はいいわよ」
と勧めてくれるのは村田英雄とか北島三郎などのド演歌なのである。 自分の夫が外で甘い感じのムード演歌を、いい気になって唄っている姿は面白くないようである。
そんなことが続き、散々文句を言われた翌日であった。 何とか家内の機嫌を直さなければと考えていた。 たまたま通りかかった有楽町のガード下でガラス細工であるがダイヤモンドにそっくりな、実に良く光る指輪を売っていた。 手にとってシゲジゲと点検したがリングの細工も悪くない。 これは丁度いい。 私は二百円で買って帰り
「良いものでないが、お詫びの印のプレゼントだよ」
と言って彼女に渡した。
女は指輪とかの宝石類をこんなに喜ぶものであろうか? 今までの不機嫌は吹き飛んでニコニコ顔である。
「あらよく光るわね。 本物じゃないでしょうけど、どこで買ってきたの? いくらしたの?」
金額は問題じゃないだろう。 気持ちの問題だから」
まさか有楽町のガード下の露天とも言えず、咄嗟にアメ横で買ってきたと答えた。
「へエー、よく光るわね。 いくらしたの? 三万円? 四万円?」
「いくらだっていいじゃないか、気持ちの問題だよ}
「それもそうね」
私はますます言えなくなった。 彼女は喜んで指にはめた。
三日ばかりして私が家に帰ると彼女がカンカンに怒っている。
「あなた何よ! この指輪、全然光からなくなっちゃたじゃないの!」
見るとダイヤが乳白色にぼやけている。 指にはめたままで洗濯をしたら光が消えてしまったと言う。
私は針と脱脂綿を持ってこさせ、針の先に脱脂綿をつけて、 裏の穴より磨いたのである。 するとガラスのダイヤモンドは再びきらきらと輝きだしたのであった。
「ほら直ったじゃないか」
「あら、ほんとだ」
彼女は疑いを持ちながらも喜んでまた、指にはめた。
ところがその翌日、 弟の細君が遊びにきた。 彼女は昔、宝石を扱ったことがあり、目が利くのである。 何の疑いを持たず信じきっている家内の指輪を目ざとく見つけると
「あら、お姉さん、いい指輪をしているじゃない。 ちょっと見せて」
そして手にとって、しげしげと見つめた後
「この指輪、 四百円? 五百円?」
と言ったという。
またまた私が帰ると家内がカンカンである。
「あなた! いったいこれ、 いくらで買ってきたの?」
「何も怒ることはないだろう。 気持ちのプレゼントと言っただけで、 いくらで買ってきたなどと言っていないじゃないか。 お前が勝手にこのくらいで買ってきたのかしらと思っていただけだろう」
「あら、そうだったわね」
アッサリしたものであった。
しかし、さすがにこれ以後より彼女の指から、この指輪は消えていた。
私は、てっきり、捨てるか どこかの子供にあげるかして処分したものと思っていたのである。
それから一年ほどした彼女の留守の折、 私はどうしてもの探し物があり、 彼女が大事にしている物を仕舞ってある場所を引っかき回したのである。 奥のほうに小さい、きれいな、見慣れぬ箱が目についた。
何が入っているのかと興味をそそられて開けてみたのである。 二百円のガラスのダイヤの指輪は、 何とこの箱の中でキラキラと輝いていたのであった。
わたしは、そっと、 また、 大切に一番奥へ仕舞い込んだのである。
平成元年
ガラスのダイヤ (1)
腰痛の方に、朗報!
詳細はこちらをクリック