ひげ物語
誰に遠慮がいるものか
私は昨年の九月から又々ひげを伸ばし始めた。 今回で四度目である。 自分では結構似合うと満足しているのだが家族(特に家内)には評判が悪い。 しかし今回は髪の毛も白くなりそれに連れてひげも白くなったので、歳相応に風格が出てきたのか以前ほどの風当たりではなくなってきた。
「貴方はひげのない方が若々しいし、すっきりしていいわよ」
自分でも分かっているのだが面と向かって批判されると、ここで引っ込んでは男がすたるとつい、つまらぬ見栄を張って突っ張ってしまうのである。
私の場合、ひげを伸ばす切っ掛けは、夏休みだとか正月休など1週間位休みが続くときを見計らい、休みに入る三日前くらいより無精ひげを伸ばしだし、休みが終わって出社の時には既成事実を作るようにするのである。
「何もそんなにこそこそしたり遠慮することないじゃないの。 どうせ伸ばすなら好きでやることだから堂々とすれば…」
と家内に言われるが、男とはどうもひげの伸ばし始めの顔をチラチラ見られるのが照れ臭いのである。
四年程前にもひげを伸ばしたことがあるが、この時は鼻の下のひげが白黒半々に入り乱れ、自分で考えていたイメージと遠くかけ離れてしまった。 三ヶ月ほど我慢して調整したがどうも格好がつかないのであきらめて剃り落としたのであった。
ひげとタバコの相関関係
今回は平成十四年の九月よりタバコをやめた。 特に理由があってやめたのではない。 たまたまある会合の後に恵比寿のカラオケスナックへ三週間ぶりに立ち寄った
このとき私はタバコを切らしていたのである。 この店はタバコの買い置きをしていない店なのだ。
「タバコを置いてない?」
「あ、買ってきてあげますよ。 何がよろしいですか?」
と近くのタバコ屋へ買いに行ってくれるのだ。 私がどうしようかなと考えていたら、
「あら山崎さん、タバコやめたんですか? 今日は一本も吸っていませんね。 そうそうこの前来られたとき、山崎さんタバコ忘れていらしたので、取っておいてありますよ」
とタバコとライターを出してくれた。
「へエー、タバコをキープしてくれてあるなんて嬉しいね。 この広い東京の中に私がタバコを吸える空間があるとは夢があって楽しいな」
と心にもないキザな言葉を出してしまった。
「あら、やはりタバコやめたんですか? それじゃ残りはキープしておくからタバコ吸いたくなったら又、いらっしゃいよ」
やめたことになった手前、以前のようにスパスパ吸う訳にはいかない。 結局二時間くらいの間に二本しか吸わなかったのである。
ところがタバコを吸わないせいなのか、カラオケの調子がすごく良いのである。 声に伸びがある。 高い音域が楽に出るのだ。 何と言っても唄っている本人が最高に楽しい。 何年か前にタバコを止めた時にもこんな感じがあったな…と思い出していた。 それならこれを機会に本当にタバコをやめよう。 どうせこれからは喫煙者受難の時代へ入るのだ。
よし禁煙を記念にひげを伸ばそう。 カラオケ・禁煙・その記念・そしてひげ…この四者にどのような相関関係が存在するのか分からぬが、ひげを伸ばすきっかけになったのは確かであった。
黄門様の心意気
ひげを伸ばした見ると真っ白である。 まだ頭の髪の毛は黒いのが多少残っているのだがひげはまっしろだ。 それじゃ顎ひげも伸ばしてみるか。 ひげは手入れに時間が掛かる。 形を整えて行くのが大変だ。 鼻の下のひげは短くした方が良さそうだとか、顎のひげは顎の先より長く伸ばさぬように水平にカットした方が男らしく精悍に見える――などと勝手に考え、十二月まで調整した。 すると
「山崎さん、顎のひげを伸ばしたら黄門様そっくりになりますよ」
と何人かの人に言われた。
「俺は黄門様ほど年寄りじゃない。 顎ひげを長く伸ばすと年寄りくさくなる」
と短くカットして来たのだ。 だがどうせここまで伸ばしてきたんだ。 いろいろやって見るか? とカットをせずに伸ばしてみた。
二月半ばを過ぎると顎ひげを手でつまんでしごけるようになって来た。 家内は
「顎ひげを、そうやって手でさわっているのは年寄りじみて良くないわよ」
と言うのだが、スナックやクラブの若い女の子より
「あら黄門様みたい。 ちょっとさわらせて」
などと言われると嬉しくなって家内から
「ひげがない方がきりっと若くなって素敵よ」
などと言われても全く剃るなどの気持ちは持ち合わせていなかったのである。
親友の遺言
ところが、ここで家内に匹敵する強力な反対者が現れてきたのだ。 彼は私とは無二の親友で付き合いは目黒に来てからなのだが、お互いにまだ独り者で酒・ばくちなどの悪い遊びは全く知らない者同志であった。 その頃私は父の町工場を手伝い、家族は杉並に住んでいたが私は工場の隅の三畳間に留守番を兼ねて寝起きしていた。 彼は両親を早く亡くし、親の残した商店を叔父の指導で続けており、店の奥の真っ暗な部屋に一人で住んでいた。
そんな二人がある切っ掛けでしりあい、夜ゆき来して遊ぶようになったのだがお互い金がないから金を使う遊びが出来ない。 マッチ棒をお金の代わりとしてトランプでポーカーをやり、五千万勝った、一億負けたと遊んでいた。 一年近くこんな他愛もない遊びを続けていたと記憶している。
それより数年して、ある良からぬ知人宅で本当の博打が行われ、知人、友人の間を現金が行き来するのを見て不思議に異様に感じたことがあった。
そんな自他共に許す親友の彼が四月の初旬、心臓発作でポックリ死んでしまった。 私よりも三歳も若いと言うのに何たることだ。 その彼が最近、私と会うごとに
「しんちゃん、ひげは剃った方がいいよ。 ひげがない方が若々しいし、男っぷりもいいし、女性にもモテるじゃないか」
と言っていた。 私はまさか、彼が死ぬとは思わないから
「この歳ではお金を使わなければモテッこないのだ。 第一もう七十を過ぎたらモテル必要はないのだしこれからモテようと思うことがムリ、ムリ」
と言いながらも心の奥では
「このひげでいつかはモテることもあるのだ」
と信じてきたのである。 ところが彼の本通夜の前日、彼の納棺前の枕もとに黙って座っていたら
「しんちゃん、ひげを剃った方がいいよ」
という言葉が彼の遺言のように聞こえてきた。
「そう言えば最近、女性にモテたと言う経験がないな。 お前の言う通りにしたら女性にモテるようにしてくれるかい?」
それでも彼には張り合って、本通夜にはひげはそのままで参列したが、告別式には遺言通り、ひげをきれいに剃り落としたのであった。
その後日談
私は私の大切なひげを剃り落として告別式に参列したのに、それに気がついてくれた人はほとんどいなかった。
その点、家内はすぐ気が付いて
「その方が若々しくって、ずっといいわよ。 ひげはいつでも伸ばせるのだから、又、伸ばしたくなったら、始めれば良いでしょう」
と言ってくれた。
そうだ。 また私の身のまわりで何か記念になるような事件が起きぬだろうか? そうすれば記念にひげを伸ばせるのに……。
最近、絶世の美人にモノスッゴク、モテる夢を見る。 ところが人がいて思いを遂げることが出来ない。 夢が覚めて
「なんだ夢か、夢でもなければあんなにモテる筈ないな。 だが残念なことをした。 夢ならまわりに人がいても思いを遂げてしまえば良かった」
と思うのと同時に
「あれ、本通夜にひげを剃らなかった分をお前は、あの世で俺に意地悪をしているのかい?。 おいこら、まごまごしていると、夢でも出来なくなってしまうぞ。 俺はトシだから……」



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