人の出逢いとめぐり逢い
 渡辺健市君はある一部上場企業の子会社の社長である。 子会社と言っても一部上場企業の子会社ともなれば社員数六百名くらいの大会社だ。 渡辺君とは十年くらい前よりある会合でよく同席していたのである。 その頃彼は専務を務めていたが忙しい体なので会の役は一切引き受けないとの条件でそれでも何かと会の運営に協力してくれていた。 それだからこの会でも渡辺君は一目置かれており、特に私は彼の会社と取引関係を持ちたいと願っていたから、とても彼を「渡辺君」と呼べる間柄ではなかった。 
 一年程前、私が幹事の忘年会で定刻寸前に会場へ飛び込んで来た彼が
 「山崎さん、山崎さんのことが分かりましたよ。 いやビックリしました」
 と言うのである。 一瞬、私は何のことか分からず
 「何かバレるような悪事があったかな?」 
 と真剣に考えたのであった。
 ところが乾杯の音頭の指名を受けた彼が
 「乾杯の前に今日は皆さんに大変嬉しいことをお伝えしたいと思います。 私事で申し訳ありませんが、本日幹事の山崎さんが私達の出身高校の二年先輩だと言うことが昨日分かったのです。 実は高校の新しい卒業者名簿が参りまして、昨日何気なく見ておりましたら偶然、山崎さんの名前を見つけたのです。 今日は皆さんの健康と本会の発展を祈念すると共に我々の偶然の出逢いにも乾杯したく思いますが皆さんご唱和願えますか?」
 大拍手の中で私は大変、晴れがましい気持ちであった。
 そして後の話で私が東京都立豊多摩高校三年のときに彼が一年生でいたこと、彼はサッカー部に在籍していたが、昭和二十七年彼が二年生のとき、全国大会の東京都の予選で優勝し、東京代表で翌二十八年西宮サッカー場に出場した。 彼はその時の我が母校を代表する花形選手であったことなどが分かったのである。
 我が母校は昭和二十四年頃より三十年の頃が歴代の中でも一番盛り上がった時代でサッカー部の他にラクビー部も昭和二十七には東京代表になっている。
 このサッカー部の東京代表になった陰には太田先生の情熱と指導があったのである。 太田先生は豊多摩サッカー部に情熱を注ぐあまり他校に転出せず、そのため一教員として終生を豊多摩で送った先生であった。 それだけに渡辺君の年頃のサッカー部OBには太田先生は神様的存在なのである。
 太田先生は 五十四年教壇勇退後もサッカー部OBの 「豊多摩凡友会」 の名誉会長であった。 渡辺君はOB会や太田先生の面倒をそれは良く見てきたのである。 特に五十八年頃より先生が体調を崩されて入院・退院を繰り返されたときも家族のことまで気を配っていた。
 この歳の忘年会の頃も太田先生は関東中央病院へ入院中で渡辺君は近じかまた見舞いに行くとのことであった。
 「山崎さん、山崎さんの川越営業所に来たときでも時間があったら遊びにきなさいよ」
 と言ってくれたので、私は年が明けた二月頃渡辺君を会社に訪ねたのである。 すると 
 「山崎さん、こないだ太田先生を見舞いに行って山崎さんの話しをしたら先生、山崎さんのことをクソミソに言っていたよ。 何かあったの?」
 「イヤー実は四十年も前の話だがこういう事があってね。 太田先生にも迷惑を掛けてしまったんだ 」 
 と東鋲協の会報に書いた「男と女の不思議」の一文を見せたのである。

           
男と女の不思議
 私が実社会へ出て数年たった二十五,六歳の頃であったろうか。 高校三年間を担任された新山先生のお宅へ寄らせて頂いた。 クラス替えのある三年間を同じ先生が担任となるのも珍しいがその反面、私の良い面、悪い面を知り尽くされている。 それだから何でも話しやすく卒業後も年に二,三度、烏山のお宅へ伺っていた。 するとある時
 「山崎、お前、結婚しないのか?」
 「いや、まだ結婚など考えたこともありません。 仕事もやっと目鼻がついてきた状態ですし、結婚して食えるか自信ないですよ」
 「一人口は食えなくても二人口は食える、とも言うし、いつかは結婚するだろう」
 「そりゃ、いつかは結婚しなけりゃならないでしょうね」
 「それじゃ、山崎の相手は俺が探してやるから俺に任せて置け」
 「まだまだ先のことですが、それではよろしくお願いします」
 事実、その頃は私自身結婚など夢にも思っていなかった。 町工場からねじの販売に移って四,五年目である。 私は決まった給料など取れる状態ではなかったのである。 それから八ヶ月ほどして、新山先生より電話が入った。
 「今度の日曜日、引き合わせたい人がいるから一時頃でて来い」
 との話である。

 当時私は箱型のダットサンの乗用車に乗っていた。 中古車のそれもタクシーで使用できなくなったポンコツ車を再生し、塗装をやり直した車であるが昭和三十四,五年の頃は、そんな車でもたいしたモノであった。。
 私は見栄を張って、その車で意気揚揚と出かけたのである。 新山先生のお宅には新山先生と大の仲良しの化学の太田先生が教え子の若い女性を伴なって来ておられた。 新山先生は私に
 「太田さんといろいろ相談して太田さんの教え子の橋田さんを紹介することにした。 お前の後輩だし、美人だし、この子なら間違いない。 どうだ?」
 「どうだと言われても今、返事の仕様がありません。 いろいろご心配を頂いて有難く思いますが、しばらく交際させて下さい」
 「それもそうだな。 それでは二人でどこかへ行って来い」
 「じゃ、そうさせて頂きます」
 大体のことは相手に伝わっているのだろうから、私は自己紹介を済ますと二人で車に乗り込んだ。 すると先生二人が後部座席に乗り込んできたのである。
 私はびっくりした。 先生二人を連れてのデートでは大変だ。 さてどこへ行ったものか? 私は車を走らせながら考え、武蔵小金井の小金井公園へ行くことにした。 この頃の小金井公園はまだ名前が知られていなかったから日曜日でも人影はまばらであった。 だから車を公園の中まで乗り入れることも出来たのである。
 何年か前に古墳が発掘されその跡地を公園としたもので、出土品の展示館の他には、竪穴式住居を再現させたものが幾つかある他に、公園には武蔵野の面影をいまだに残した広い雑木林が隣接しており、雑談をしながら散策するにはこの雑木林は、うってつけの場所であった。 小金井公園につくと先生は
 「それでは二人でその辺を歩いて来い」 そして私だけを呼んで
 「山崎、くれぐれも自重しろよ」
 と注意するのである。 冗談じゃない。私がいくらワルでも先生から紹介されたばかりの可愛い後輩の女の子にすぐ手を出すようなことをする筈がないだろう。 先生は若い男は皆、狼とでも思っているのか? と思いつつ、それでも素直に
 「はい、分かりました。 そんなご心配は掛けませんよ」
 と返事をしたのである。
 私は歩きながらまず共通の話題の高校生活から始まって、家族の話や仕事の話をして、どうも先生の監視が厳しいようだが良かったらしばらく交際を続けましょうと話をして彼女の了解を取り付けたのである。 
 その間、二人の先生は心配なのか、見え隠れに後ろからついてくるのである。 私は監視つきのデートをはじめて経験した。 その上、月に一度は先生に交際の状況を事細かに報告する羽目となったのであった。 その度ごとに
 「山ア自重しろよ。 山崎自重しろよ」 と言われるのである。
 私は結婚を前提とした交際なので、家に招待して両親にも引き合わせたし、彼女の家にも招待を受け、ご両親、兄弟とも談笑した。 そんな状態でアッという間に6ヶ月が過ぎたのである。 もっともこの時代は週休2日などとんでもない。 中小零細企業では日曜日でも第一・第三の日曜日が休めればよいほうだった。 だからデートも月に一度か二度くらいであった。
 半年が過ぎてみたものの、どうも気持ちがしっくり通じないのである。 何か不満なのだ。 特に何かといわれても思い当たるものがないのであるが、何か不満で何となくしっくりしないと言う感じである。
 ある時、ふと気付いた事は、お互いがあまりにも冷静になりすぎていたのではないか? という点であった。 男と女はカッカと燃える物がなければならない。 評論家のように冷静に相手を観察し続けたのでは面白くも楽しくもないものである。
 映画も見に行ったし、食事も共にした。 お互いの友人を交えてのドライブや、ハイキングにもいったがその中にカッカと燃えるものが無いと仲の良い友達の域を出ないのである。
 男同士の友達なら仲が良くなるほど勝手なことを言い合えて楽しいが、これが異性となるとどうも始末が悪い。
 私は意を決して、この点を二人でじっくり話し合ってみた。 すると彼女も同じ考えで悩んでいたと言う。 良い友達では来れたが、それでは結婚となると、まだ踏ん切りがつかない。 そうかと言って、このまま交際を続けて先生に報告していくのもお互い息が詰まる。 二人とも見合いの経験は初めてだし、良い友達付き合いが出来て良かったという事で結論を出そう――と意見は一致した。
 「良い友達付き合いは出来るが、お互いが結婚しようという気持ちに発展しないので二人で話し合って交際を打ち切ることにしました」
 と先生に報告したところ
 「そんな理由はあり得ない。 本当の事情は何だ?」
 「いや、本当も嘘も無いですよ。 良い友達ではいられるが結婚するという気持ちになれないという事だってあるでしょう」
 「そんな事は無い。 男と女は好きか嫌いだから、好きなら結婚するし嫌いなら断るのだ。 断るには顔が悪いとか、気立てが良くないとか何かはっきりとした理由があるはずだ」
 「私は男と女だから、良い友達でいられても結婚する気にならないということもあると思いますけど、強いて言へばお互いが冷静になりすぎてカッカ燃えるものが無かったのが原因かも知れません

 「男と女が一緒にいてカッカ燃えないなんて事があるか。 そんなの理由にならん」
 私としては、それ以上言うわけには行かない。 先生に相談せず勝手に断る方は無い。 あれだけの美人を断るなぞ勿体無いぞ、等々散々叱られた。 確かに面長の美形タイプではあったが私には縁が無かったのであろう。 私もその後たまに先生にお会いすることがあっても、あれ以上の話しをしないできた。
 最近、歳を重ねてきたせいか高校の仲間が昔を懐かしみ、クラス会や同期会が毎年のように開かれる。 その折には新山先生や太田先生もお呼びするのであるが、もう四十年前の話しであるから、先生はすっかりお忘れの様子である。 しかし私はあれ以来、先生の紹介は全くコリゴリだと思ったのであった。
 その後半年ほどして丸顔の女性とめぐり逢った。 わたしには面長より丸顔の女性が合っているようである。 今まで仕舞っておいた情熱に一辺に火がついた
あっという間に燃え盛った炎は一年近く燃え続け、いまだに家内の兄弟からからかわれる始末である。 だが若いとき燃やした情熱は四十年経った現在はどこえ行ってしまったのかと不思議だが、年を取るに従いお互いが言葉に出さずとも以心伝心で理解できるようになってくるのも不思議である。

 
 「へえー、こんなことがあったの? だけどこんな事情、太田先生、ゼーンゼン知らない様子だったよ。 それじゃ近いうちにまた病院へ行くことになっているから、その時、これ持っていって先生に読んでもらうよ。 そうしたら山崎さんに連絡するから病院へ見舞いに行ってらっしゃいよ。 誤解も解けるから」
 良い後輩を持つと全く有難いものだ。 後日渡辺君から連絡が入ったので早速、関東中央病院へお見舞いに伺った。
 私が病院へ伺ったときには、丁度奥様も病室におられた。
 「豊多摩高三期の山崎です」
 と告げると私の 「男と女の不思議」 を読んでくださった奥様は

 「あら、あなたが山崎さんですか」
 と笑っていらっしゃる。 先生は痩せてしまわれて骨と皮という感じであったが、それでも割とお元気なご様子で顔を枕から持ち上げるようにして
 「おう、山崎来たか。 待っていたんだ。 お前の文章読ませてもらったよ。 随分、昔のことだが、つい昨日のことのように思えるよ。 だけどみんな立派になってしまって、俺が年取るのも無理ないな」
 と笑っておられた。 あれから二ヶ月もしないで太田先生は他界なされてしまった。 四十年も前の話だから先生方は、すっかりお忘れだろうと私は考えていたが、とんでもない、 さすが先生である。 忘れた振りをしているだけでしっかり覚えておられた。 
 私は太田先生が少しでもお元気なうちに渡辺君のお陰で先生のご理解を得られたことを全く有難いと喜ぶと共に、人間の出逢いの不思議さを しみじみ 感ずるのである。
                                昭和58年4月

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