金儲けは 固く行くか 軟らかく行くか
                            貴方ならどうする? 
  固 い 話 
久し振りに秋山社長を訪問した。秋山社長は豪快な人である。歳は私より若いのだが仕事の内容も人生経験も私の先輩格なのである。彼は新潟の中学校を卒業すると上京して大森のある鉄工場で年季奉公を務めた。昭和三十年の頃の話である。昔の年季奉公にはお礼奉公が付き物であった。合計5年の奉公を全うするとある建設会社へ移り、腕を磨いた後、25歳の若さで独立する。
 桶川で工務店を設立し個人住宅の建築を手掛けたが、彼の竹を割ったような性格は地元の旦那集から可愛がられ、次から次へと大きな注文が集まると言う状態であった。
 家を建てるにはなんと言っても基礎工事が大事なのであるが、この時代の基礎のコンクリート打ちにはベニヤ等でパネルを作り、それを枠に組んでその中にコンクリートを流し込んで基礎を作るという方法であった。このパネルずくりはなかなか手間が掛かるのであるが腕の良い大工は基礎のパネルずくりは半人前の職人のする仕事というプライドがあるから手を出さず、仕上がりの良い基礎が出来ず苦労をしたものである。一度使用したパネルはほとんど二度、三度は使用出来ず逆に処分するのに苦労した。
 何とか能率の良い便利な、そして何回も使用できるパネルが作れないものだろうか? の発想から誕生したのが組み立て自在の鉄鋼製「フリーパネル」であった。今では桶川の地に一万坪の敷地の工場でフリーパネルの生産を手がけているが、さらに新潟の十日町の工業団地に三千坪の新工場を建設した。
 考案したパネルを自分で使用してみると能率的で大変使い易い。面がきれいだし、何と言っても角がきれいに仕上がるから家全体がきれいに見える。基礎の良し悪しが家全体の美的感覚をこうも変えるものかと自分でビックリしたのであった。当時実用新案と思って申請を出そうとしたら特許で行けると言う。そして三件の特許が承認されたのである。
 こうなると、もう建築など手掛けてはおれない。今よりは小さな場所であったが資材置場も切込み作業場も工場にしてフリーパネルを製作した。
 もちろん彼も職人と一緒になって生産に励み
 「社長、もう在庫が一杯になって置き場所がありませんよ」
 「よし、其れじゃ売って来るか」
 4トントラックに満載に積み込むと、自分でトラックを運転して、福島・宮城・新潟・山形方面へ売って歩いた。
「考案者が自分で使用して絶対便利だと思うものを自分が説明して売って歩くのですからこれは売れました。営業に迫力が違うのです。そして現場の人たちと話し合うことで自分では気の付かなかったアイデアの提供を受けることも出来たのです」
 作業服のまんま、見ず知らずの工務店へ飛び込んで
 「とに角、俺の考案した基礎コンクリート鋼製型枠と言うのを見てくれ。実際に組み立てて見せるから」
 と庭でも道路にでも組み立てて見せると、その能率のよさに、見た人はビックリするのである。そしてほとんどの会社が買ってくれた。中には前金を渡されて、あと一車分持って来いという工務店まで出てきたのである。
 彼は満載の商品を売り尽くすと、夜も寝ずに桶川の工場へ取って返した。そして一車分持って来いと言う客先へピストン輸送を行ったのである。三日も寝ずと言うことは良くあったのだ。
 徹夜も三日となるとどんな超人でも眠くなる。彼は瞼がさがらぬように鉢巻で目がつり上がるように固くしめ、東北とのピストン輸送を果たしたのであった。当時は今のような高速道路は勿論ない。東北の道路は舗装もされていない道が多かったのである。
 しかし人間の体力には限界があるものだ。こんな無理を二年も続けたら人並みはずれた頑丈な体の持ち主の彼でも奇病に取り付かれた。両目の瞳孔が開きっぱなしとなり昼間などは眩しくって目を開けていられない。瞳孔の調節が全く出来なくなってしまったのである。
 こうなって始めて彼の人生観が変わった。人間一人の限界を悟ったのである。と同時に金儲けは一人でするものではない。多くの人に協力してもらって、その得た利益は協力してもらった人達にも分配すべきものだと言うことを知ったのであった。
 現在彼は、社員に権限をドンドン委譲している。社長が自由な時間を持てることが成功の秘訣だと言うことを知ったからである。しかしここに至るまでには何日も寝ずに、死ぬような思いをした時代があったのである。
 桶川の工場は一万坪の敷地の中に、一千坪の工場が立っているのであるが、製品の大半を外注製作としているのだ。それはプレス等の加工機械ラインと塗装ラインは広い工場の一部であるがこのラインは、職人をそれぞれ独立させて、別会社となっており社内外注の形で全面的に親会社へ協力させているのだ。
 広い建物の大半は倉庫部分として使用している。倉庫内には、各外注先に黄色い線で区切られたスペースを与えられている。各外注先は与えられたスペースに製品を納入するのであるが、在庫品が一定のラインまで減少すると自主的に補充するように管理されているのだ。鋼材等の量の多い材料は親会社が各外注先のものを取りまとめて一括購入するから安い価格で支給できる。
 購買の担当者は、暇で何もすることがないと思われるがそんなことはない。常に新技術と安い仕入先を探しているから、社内外注の子会社だと言ってもうかうかしておれないのだ。
 フリーパネルは現在、埼玉県内は自社で営業し販売しているが、その他は代理店に任せて販売している。だが売れる製品は強いものだ。こちらが売ってくださいと頼まなくとももっと商品を廻してほしいと代理店より社長が接待を受けると言う始末である。とくにこの二、三年は建築ブームにもあやかって、作っても作っても生産が間に合わぬと言う嬉しい悲鳴をあげている。
 彼が会社の組織をこのようにしてからは社長が会社にいるいないに関係なく、秋山鉄鋼建設は順調な業績を上げている。
 こう書いてくると彼は仕事一途な、遊びと名のつくものは全く無縁のコンコチに固い人間のように思われるがどうしてどうして遊びもなかなかの粋人である。
 しかし遊びもただ惰性で遊ぶと言うのではない。毎回ではないが興が乗れば奇想天外な発想とアイデアで同行の者を煙に巻くのと同時に楽しませてくれる。
 金儲けは固いばかりでも駄目、軟らかいだけではなお駄目だと言うことを身を持って教えてくれる人である。
 今回は固い話しを書いたが、後編で軟らかい話に移ろうか。この軟らかい話が同一人物の話なのだから驚きなのである。
                               (平成元年1月記す)