軽川光風館事件
尼港事件
大正九年、尼港事件が発生した。尼港事件とはシベリヤのアムール川河口の炭鉱の町、ニコライエフスクの炭鉱に日本から炭鉱夫五百人位が、労働に出向いていた。丁度、帝政ロシヤが崩壊し、内乱があちこちで起こり政情不安となっていた時代であった。ヨーロッパの各国も自国民の保護を名目にソ連へ出兵した。
日本も他国と同じくニコライエフスクの炭鉱労働者を保護する目的でシベリヤへ千名ほどの軍隊が出兵し、ニコライエフスクを占領していたのである.
その後、どうにか世情安定し、ヨーロッパの各国が撤兵したのであるが、日本は他に思惑があったのか、なかなか撤兵をしなかったのである.
大正九年二月、バルチザンに攻められた同守備隊は戦況不利と見て、これと協定を結び、市を撤退すると協約したのであるがその後、応援部隊が出発したとの無線連絡の報を得ると隊長、領事が功を焦り、協定を破って奇襲攻撃に出たのである.
ところが強力なバルチザンの反撃にあい、前線部隊は隊長、領事を含めて全滅し留守部隊少数と居留民122名が捕虜となった.
五月に日本軍が大挙来襲するとの報をバルチザンが知り同市を撤退することになったがその時、市街を全く焼き払い、日本人捕虜を全員皆殺しにしたのであった。救出部隊が尼港を占領したときは全市は、満目荒涼とした焼け野が原と化し惨憺たる光景を呈していたという.
当時の軍歌に
満目百里 雪白く
こうぼう山河 風荒れて
枯れ木にやどる 鳥もなく
ただ上弦の 月青し
光に濡れて しらじらと
打ち伏す屍 我が友よ
握れる銃(つつ)に 君はなお
国を守るの 心かよ
続く
という歌が存在し唄われていた。
日本軍は、せっかく救援に向かったが、ただの一人も救出できず、恨みを飲んで
虐殺された死体を見出すのみであった.これを尼港事件と言う.
バルチザンとはシベリヤ地区の今で言うゲリラである.しかしその獰猛振りと訓練された強さは日本人を震え上がらせた.
私がまだ小さい頃、腕白な子供を年寄りの人達が
「この子はバルチザンみたいだ」
「うちのバルチザンには手が付けられない」
などと評していたのを今でも覚えている.当時のバルチザンの脅威が、どんなであったのか分ろうというものだ.
北海の海賊
その後、大正十年頃、沿海州アムール川周辺に海賊が出没するようになった.狙われるのはソ連の漁船、貨物船である.海賊はロシヤの船を停船させるとロシヤの船員を甲板に並べて日本刀で全員の首を刎ねた.そして積荷その他を奪い去ったのである.日本船に被害がないのでなかなか実情を掴むことが出来なかった.しかし数が重なるにつれて国際問題に発展して来たのである.
日本政府も放っておけなくなり調査を開始した.海賊は、汽船大輝丸七四〇トンを操り軍人上がりの江連力一郎が頭目であった.江連力一郎は剣道五段、柔道五段、空手四段、その上ピストルの名手であった.江連が生死を誓い合った刎頚の友、松本源八郎が尼港事件で戦死していた.松本源八郎は奇襲攻撃を強行に反対したため卑怯者呼ばわりされ留守部隊に残されたのである.そして松本は居留民の身を案じ甘んじて、とらわれの身となった.皆殺しの悲運に見舞われた時も民間人の居留民を庇い、立派な最後であったという.
江連はこのように立派な松本を殺したバルチザンに義憤を感じ、遂には暴徒の頭目となったのであった.
しかし政府の追及が厳しくなるにつれ、彼らは海上にいられなくなり陸に逃れた.遂には国定忠治ではないが、江連は仲間とも別れて散り散りとなり、逃れ逃れて北海の地、手稲に身を隠したのである.
軽川光風館
昔、手稲山の麓に軽川光風館という料亭旅館があった.春は桜の名所であり大変よい冷泉が湧き出していた.当時で百数十名の宿泊設備もあり、定山渓温泉が開発されていない当時としては、小樽、札幌の奥座敷として大変な賑わいを見せたものであった.
江連力一郎は愛人お梅と光風館に身を隠した.江連は毎朝散歩に出掛ける.和服に雪駄ばきで山道六キロを歩き、山奥の桜の木に向かってピストル十発を試射するのが日課であった.距離十五メートル、この桜の木にいつしか深い穴が出来たのであるが、この穴は一点であったという。昭和末期までこの桜の大木は残っていたそうであるが近年の都市化の波で切り倒されたとのこと誠に残念なことである。
身を隠して一ヶ月余り、朝は羽織姿で散歩、夜は朗々と詩吟を吟じていたのでは、身を隠していることにはならない。田舎町では俺はここにいるぞと宣伝をしているようなものである。遂に官憲の知るところとなり、ある晩、光風館は警官の大包囲網に包まれた。
地元の消防団員から青年団を動員した包囲網は二重、三重と光風館を取り巻いた。正に蟻の這い出る隙間もないとは全くこのことである。この気配を察した江連は、愛人お梅を先に逃した。官憲が部屋に踏み込んだ時はすでに藻抜けの殻であった。
岩田総一郎警部
江連力一郎は十重、二十重の包囲をどうかわしたのか、和服姿でユウユウと山を下っていたのである。部屋に残っていた茶碗のお茶はまだ温かかったという。まだ遠くへは逃れていない筈である。官憲はすぐ後を追った。
彼は大島紬の和服に雪駄ばきで懐手をして軽川沿いの道を手稲駅へ向かっていた。恐らく懐の中の手にはピストルが握られているに違いない。官憲は彼の姿を発見したが遠巻きにして近づくことが出来ない。彼はユウユウと歩いてゆくと駅前の旅館に入った。
「おさわがせして申し訳ないが、水を一杯、馳走して頂きたい」
彼は逃げおおすことは出来ないと観念していた。官憲の近づくのを待って、頃合を計っていたのである。
女中が震える手でお盆に乗せて差し出すコップの水をうまそうに飲み干すと礼を言って玄関先へ出た。北海道の玄関先は雪の関係で道路より四、五段上がっている。江連力一郎は懐手をしたまま、遠巻きにしている警官の輪がじりじりと縮まって来るのを黙って見下ろしていた。
輪が十メートル位に縮まったとき、官憲の中より一人の男が歩み出てきた。この男は他の官憲を圧して堂々としていた。
「私は道警の警部、岩田総一郎と申します。 失礼ですが江連力一郎は貴方ですね」
岩田総一郎は北海道では有名な警部であった。柔道五段、剣道三段、当時の段位は権威があった。恐らく江連とは対等の実力であったであろう。
暫く二人は相手の目を見つめ合った。英峰は黙してもお互いの腹を知るという。
江連はにっこり笑うと
「ほう、貴方が岩田さんですか。貴方の名前はかねがね伺っております。お会いするのは初めてですが、私も貴方の手に掛かるのなら本望です」
と言うと、江連は懐よりピストルを取り出して岩田警部に渡したのであった。
江連は後に裁判に掛けられて懲役二十年の刑が確定するのであるが、勿論模範囚の彼は幸運にも度重なる恩赦等にも恵まれ、五年で刑期を終えて出所することになる。その後、請われて満州へ渡り、一生を満州開拓に尽くしたとのことである。
昭和十五年、東京の柳橋より鄙びた田舎町の料亭「みどり」に移ってきた薄幸の芸者小春は(手稲金山物語 後編参照)何と江連力一郎と愛人お梅との間に出来た娘であったことが小春の死後、手稲の料亭「みどり」のご当主萬田氏によって解明されたのである。
芸者の子は芸者、との封建思想が根強く残っていた昭和の初期の花柳界としては当然であったのであろう。
数奇な運命の持ち主、小春の一生はまたの機会に記したいと思う。
(完) 16.5.23


