目黒・恵比寿今昔
目黒 古きよき町・坂の町
この地で紹介したい場所は沢山あるのだが、今回は目黒競馬場・目黒雅叙園・目黒駅からサッポロビール工場及び三万坪の工場跡地を再開発した、恵比寿ガーデンプレイスの今昔を記したいと思う。
明治四十年より昭和八年までの二十七年間は目黒の地に競馬場が実存した。目黒競馬場から府中競馬場へ移転して、半世紀を過ぎると地名も、東急バス停に「元競馬場」の名が残っているだけで、昔のことを知っている人も少なくなった。だが記録によると競馬の開催日には競馬場に行き来する人たちで、今の目黒通りは身動きが出来ぬほど賑わったそうである。
目黒駅から大鳥神社へ通じる権之助坂は昭和の初期に完成した道路で、それまでは目黒七福神の一つとして有名な大円寺より、目黒雅叙園の前を通って太鼓橋を渡る急な坂道の行人坂のみであった。荷物を運ぶ大八車が急な坂道に耐えられず力が尽き、坂道を逆送して積荷とともに大八車ごと目黒川へ転落するという事故が良く起きたという。あまりの苦難に権之助坂が出来たのであるが、それでも長い上り坂なので大鳥神社辺りには、後押し人足がいて、坂の上まで押し上げて、幾ばくかの駄賃を得ていたのであった。
この新設された権之助坂を通る目黒通り(旧名二子道) は港区の白金より目黒競馬場まで、木製のレンガで舗装されていた。これは港区の白金・品川区の長者丸・目黒区の三田には家族・有名な政治家・高級官僚・大金持ちの実業家等の豪邸・別邸があり、この豪邸よりぎょ者の操る馬車で競馬場へ出向いたそうだが、この馬車の車輪が木製のレンガに程よく当たり、カラコロとそれは心地よい音を立てたとのことである。この木製のレンガの舗装は昭和四十年頃まで残っていたそうであるが交通量の増加とともに痛みが激しくなり、都電の廃止、道路の拡幅工事とともに消えてしまった。末期の頃の木製のレンガは油を吸って滑りやすくなり、雨の日など車がスリップしたり、オートバイが転倒したりで我々が若い頃は苦しんだものである。
目黒雅叙園
目黒雅叙園は昭和六年に開業した。創業者の細川力蔵は立志伝中の人と伝説的にいろいろ言われているが、目黒に来る前は、すでに芝浦で芝浦雅叙園を経営していた。これが東京市の大きな施設を作ることで買収となり、この金を元に力蔵の夢を目黒で開花させたのであった。
現社長の細川敏郎は力蔵の孫に当たるが、社長としては六代目となる。この六代目には力蔵の夢は直接聞かされていないが、人ずてに聞いた話や書物などから総合的に判断すると
「夢のような世界をこの世に表現して、一日お大尽の世界を大衆料金で開放し、多くの人と見果てぬ夢を共有したかった」
ということであったと思われる。
昔の雅叙園は木造で日本旅館のような造りであった。増築に増築を重ねたせいで廊下は上がったり曲がったり、まるで巨大な迷路のようであった。廊下も長かったが、一番長いのは全長で二百メートル以上もあったという。廊下、階段という階段の壁には螺鈿細工で草花の絵が描かれ、さらに極彩色の風俗画が浮き彫りにされ、天井には美人画がはめ込まれたりしてあった。
玄関に一番近い「便所」の室内には池があって錦鯉が泳いでいた。朱塗りの橋や島の造りが何となく竜宮城を連想させたのである(雅叙園社長細川敏郎著「雅叙園今昔」より)
平成三年、新装なった目黒雅叙園に細川社長が一番心を砕いたところは「近代建築の中に創業者の細川力蔵の精神を如何に引き継ぐか」であった。
そのため壁画や螺鈿細工の絵を損なわぬよう解体して修復し、コンクリート建物の中に再現してゆくという作業に大変な費用が掛かったと言う。
目黒雅叙園は創業者の遺志により、合資会社を守って現在まで経営している。故に株式は上場していない。株式会社にすると上場して乗っ取られる危険があるとの力蔵の考えからであった。最近問題を起こして話題となっている雅叙園観光ホテルは最初から全く別法人で、目黒雅叙園とは何ら関係がないことを目黒区のために記しておきたい。 (平成5年6月記す)
追記 目黒雅叙園は平成三年完成の 全面改築して再出発したが 六代目
社長がバブルの波に乗りすぎ、あまりにも金を掛けすぎたためバブルの 弾けとともに資金が回らなくなり平成15年に倒産し、外資に買収される 結果となった。
恵比寿ビール工場
恵比寿のサッポロビール工場は明治二十年、大日本麦酒株式会社として誕生した。山手線が開通する以前である。ビール会社がこの地に目をつけたのは、ここに江戸時代に作られた三田用水が流れており、この豊富な水を利用出来たからなのであった。恵比寿の地はビール工場とともに発展した。 当時は恵比寿という地名は存在せず三田村と呼ばれていた。 三万坪の原っぱの中に当時としては大きな工場なのであろうが、今、写真で見る限りではちっぽけな赤レンガ造りの工場が一棟━━この工場で明治二十三年よりビールの醸造を始めたのであった。 そしてそのビールの銘柄がエビスビールであったのである。
明治三十年頃より山手線が貨物専用線として工事が始まり、明治三十四年にエビスビール工場にかもつ専用駅が誕生する。その頃の山手線はもちろん、電車でなく蒸気機関車であった。
山手線の初期の計画では品川駅より大崎駅を通り目黒川に沿って、現在の大鳥神社周辺に目黒駅ができる予定であった。昔の目黒は目黒不動尊の門前町として栄えた町である。当然、繁華街の中心は目黒不動尊から大鳥神社周辺であった。町外れからは肥沃な田畑が続いており、この町民と農民から鉄道敷設の猛反対を受けたのである。
その反対の理由は、町民は汽車の煙害と騒音であった。今でも地方の古い歴史ある町なのになんでJR (昔の国鉄) が通じていないのかと不思議に思う町があるが、力のある町ほど鉄道建設に反対し、鉄道を迂回させたためである。当時は町の繁華街の中心と高級住宅地は駅より二キロから四キロ離れていれば煙の害も及ばなかったのである。
農民の反対理由は鉄道を敷設するとその脇に通信用の電線が張られるだろう。その電線には雀が止まるだろう。止まった雀は田んぼの稲を食べるに決まっている。だから反対だ。とのことであった。この反対の決議書は目黒の守谷図書館に保管されていると長老から聞いた。
この反対で山手線は大崎駅より五反田駅を高架で建設し、目黒駅を切り通しの掘割工事となった。しかし当時の鉄道技術ではこの工事は難工事を極めたという。
そのため目黒駅は地番が品川区となってしまった。
ところがその恩恵を一番受けたのがエビスビール工場であった。鉄道敷設のため相当の土地を提供した事情もあるが、昔はタダ同然の土地である。工場の中に貨物専用駅が建設され、原料の搬入、、ビールの出荷が容易となり、生産が一挙に倍増したのであった。
明治三十九年に、それまで貨物と客車を一緒に連結して走っていた機関車が客車専用で走るようになり、旅客専用の恵比寿駅が建設され、その後、恵比寿1丁目、2丁目の地名が誕生した。目黒と恵比寿の間に架かっている恵比寿南橋は昭和三十六年、新しい橋に架け替えられたのであるが、それまでの古い橋はアーチ型の鉄橋で、トラック一台やっと通れる位の道幅であったが長さが長いため、日本の技術では架橋できず、アメリカの橋梁会社が架橋工事をした。現在でも恵比寿ガーデンプレイス側の壁にはアメリカブリッジカンパニーの鉄の銘板が残っている。これよりこの橋は通称アメリカ橋と呼ばれるようになったのである。
サッポロビール工場が千葉に移転し、その跡地が恵比寿ガーデンプレイスとして再開発され、目黒の地にもう一本の橋が架かった。この橋の名称を公募したところ
「三田橋」が多いとのことで決定したのであるが、地元の若い人達はアメリカ橋に対抗して通称ロンドン橋と呼びたいと願っているそうである。また満月の夜、目黒方面より昇ってくる月がそれは大きく見事に見えることより 「月見橋」と名ずけたいと主張したそうであるが、頭の固い地元の長老と区役所の役人が公募の数が多いということで「三田橋」という面白くもない名称にしてしまったのは残念なことである。
今、新しい町の恵比寿ガーデンプレイスより三田橋で、古い町の目黒区三田へ渡って来ると天国より地獄へ渡る感じがする。町おこしは橋の名一つからでも始められるものかもしれない。 ( 平成5年6月記 )
ショート・ショート
美人秘書
「まあ、奥様、今日は大変嬉しそうでございますね」
「あら、分ります? 実は昨夜、主人とパーティーへ参りましたの。
そこで主人ったらすっかり酔っ払って、私を秘書と思い込んで、
ホテルへ誘って、それはもうチヤホヤと、ホホホ……」


