右側からの視線  
 幸子は右側からの視線を感じていた。 このようなことは良くあることなので、さして気に止めなかった。 しかし今日の視線はいつも受けるものとは違う。 とても柔らかく感じるのである。 山手線に乗るようになってから一年を過ぎようとしていた。
 7時48分、幸子はいつもこの時間に山手線に乗る。 井の頭線を降り、山手線に乗り換え、二つ目の目黒で降りるのであるが、この5分の間にこういった視線は何回も経験して来た。
 幸子は身長158p、特に背が高いという程ではないが、この頃やっと履きなれたパンプスで高く見えるほうである。 すらりとのびた足、特に膝から下が長く細いものだからグラマーな割には着痩せして見えた。
 幸子は、朝のハチ公広場が好きである。 夜は待ち合わせの人達でごったかえし、タバコの吸殻や紙屑が散乱してるが、早朝の掃除できれいになった後の広場は、気持ちが晴々とするのである。
 だから雨が降らぬ限りは井の頭線より階段を降り、遠回りになるがハチ公広場を通って山手線に乗ることにしていた。
 ゆっくりとハチ公広場を歩きながら、昨夜はこの広場からどんなロマンスが生まれたかな?と想像するのも楽しいひと時であった。
 7時48分発の山手線内回りはまだラッシュアワー前である。 二つ目の目黒で降りるので、たまに空席があっても幸子は座らず、電車に乗ると向かい側のドアの脇に立ち、外を眺めるのが日課であった。
 恵比寿を過ぎ目黒に近づいて来てもこの柔らかい視線は続いていた。 右後方からである。
 電車がホームへすべり込んだので幸子は降りるべく体の向きを変えたと同時に視線の方向をチラと見たのである。 そこには背の高い、いかにも育ちの良いといった感じの青年が立っていた。
 幸子はその日一日、何となくウキウキとした気持ちであった。
 目黒駅より行人坂を下る途中に、山の手七福神の大黒天を祀ってある大円寺がある。
 その境内に今を盛りとあじさいの花が咲き乱れていた。 毎日歩いているのに今まで何で、気が付かなかったんだろう。 このあじさいの花が今日は殊更、新鮮に思えた。
 しかし一日経った翌日は、昨日のことはきれいに忘れていた。 いつものように7時15分、浜田山より井の頭線に乗り、7時40分渋谷に着く。 ゆっくりハチ公広場を歩いてJR改札口を通り、階段を上って7時48分の山手線に乗った。
 ところが恵比寿駅の近くになって、やはり昨日の視線を感じたのである。 案の定、昨日の青年が立っていた。 幸子が振り向いたとき、この青年がかすかに微笑んだようであった。
 翌日の日曜日には洗濯をしたり、亡くなった母が幸子に残してくれた着物の虫干しをしたりの、一日であったが、何となく月曜日が待ち遠しい気持ちであった。
 ──もう山手線に乗って一年以上になるのに、今まで全然気がつかなっかったのはどうしてかしら? 彼はどこから乗ってくるのかな? そしてどこまで行くのかしら?──
 仕事の合間には、ふとこんなことを考えたりもした。
 ──今日は少し早く出てみようかな?
 幸子は浜田山を一本早い7分発に乗ってみた。 山手線は4分間隔だから一本見送ればよい。 彼がどの電車で渋谷に来るのかだけでも分るだろう。 井の頭線から山の手線連絡通路で行くと3分とかからない。 しかし朝の通勤客はどうしてこうせかせか歩くのだろう? 幸子はこの雰囲気が嫌いで、いつも階段を降り遠回りをしてハチ公広場を通るのである。
 ──今日だけは特別よ!
 と自分の心に言い聞かせながら途中で回りの人と同じように、せかせか歩いている自分に気付き思わず苦笑してしまった。
 ホームに着くと35分の電車が出てゆくところであった。 次は40分、44分、48分と続く。 2本見送ることになるので、幸子はホームより離れ、売店の陰で待つことにした。
 44分の電車を見送り、降りた人の流れが潮の引くように一段落したときである。
紺のスーツを着た彼が現れて乗車線の右側に立ったのである。 彼は階段を上ってくる乗客にそれとなく視線を配っている気配であった。
 48分の電車は定刻に入ってきた。 彼は先頭で電車に乗るとドアの右側に立ったのである。 幸子は最後尾から乗ると真っ直ぐ歩いていつもの場所にたった。
幸子はやはり右後方より柔らかい視線を感じ、胸の高鳴りを覚えると同時に耳たぶが赤くなって行くのが自分でもわかった。
 ──声を掛けられるのでは?
 しかしこの期待は外れた。 目黒で振り向いたとき、彼は優しい目で微笑んだだけであった。
 こんな状態が5ヶ月続いたのである。 いつしか暑い夏が過ぎ、木の葉散る秋となっていた。 相変わらず幸子はハチ公広場を通り、7時48分の山手線に乗っている。 彼は東横線より、山手線のホームへの階段を下りてくるのである。
 お互いが意識しだしてから5ヶ月が過ぎたある日、乱暴な客に押されて、幸子が彼の足を踏んだのがきっかけとなり、この頃やっとホームで挨拶を交わすようになったのである。
 渋谷と目黒の短い乗車時間に話し合うようになったのもこのひと月くらいであった。 だが山形育ちの幸子にはこれだけで満足であった。
 高校卒業間際に両親を次々と亡くした幸子は、3年間、山形で一人で家を守ってきた。 だが八つ年上の姉が
 「三回忌もとうに過ぎたのだし、幸子をいつまでも一人山形に置いとく訳にも行かないから東京へ出ておいで。 どうにか建売の家も買えたし、その積りで幸子の部屋も用意したよ」
 と言われ、東京へ出てくる決心をしたのである。 隣に住んでいる叔母は、幸子を可愛がっていてくれていたので、心配し
 「幸ちゃんは器量良しだから東京へ行ったら、すぐ男にだまされるよ。 東京の男は悪いから……。山形でお嫁に行った方がいいよ。 幸ちゃんの器量なら玉の輿だって望めるんだから、そうおしよ」
 と散々引き止められたが、たった一人の姉の心遣いが嬉しく、怖い東京へ出てきたのであった。
 勤務先の独身社員や、取引先の関係からも熱心にいろいろ言い寄ってくる男性は多いのだが叔母の
 「幸ちゃんは、しっかり者だから大丈夫だろうけど、東京の男は田舎者より上手だから気をつけなよ」
 の一言が耳に残り、素直にデートを受ける気にはなれなかった。
 ──今日はもっと話しをしてくれないかしら?……
 この頃はそう思うようになって来た。 だが渋谷から目黒の短い時間である。 ろくに話も出来ないうちに終わってしまうのである。
 ──もうそろそろ彼が降りてくる頃だわ……
 幸子はそう思って東横線連絡階段の方へ目をやった。 その時、紺とグレーの男にまじって、和服姿の女性が目についた。
 紺のスーツの中に和服姿の女性。 なぜか見える筈のない足袋の白さが印象的であった。 だが48分の電車が到着しても彼の姿は現れなかった。
 この頃は、私鉄が多少遅れたときなど、双方で1・2台程度は見送ることもある。
 ──また東横線が遅れたのかしら?……
 幸子は軽い気持ちで見送った。 しかし彼は8時2分の電車が来ても現れなかった。
 ──あら、どうしたのかしら? めったにこんなことは無いのに。 寝坊でもしたのかな?……
 8時を過ぎて通勤ラッシュが始まっている。 幸子は何となくホームを見回した。
幸子の後ろの方に和服姿の中年の女性が立っていた。 彼女は幸子に微笑んだようである。 その微笑みは幸子の母を思わせる親しさを感じさせた。
 8時6分、これも見送った。
 ──風邪でも引いたのかしら? 熱でも出していたら可哀想に……
 だが次の8時10分に乗らなければ会社に遅刻してしまう。 幸子はあきらめて今度来る電車に乗ろうと決心した。
 と、その時である。 幸子の後方に立っていた品の良い和服姿の女性が近ずいてきた。
 「失礼ですが、貴女はいつも何本か前の7時48分の電車にお乗りになる方ですか?」
 一瞬、幸子は息が詰まった。 和服姿の女性はにこやかに、大切なものでも見つめるように立っている。
 「は、はい、そうですけど」
 「実は、息子が会社の急用で昨夜、札幌へ出張しました。 そのことをどうしても貴女に伝えてほしいと言って出掛けましたので、私が参りましたのよ」
 この女性のにこやかな態度は、幸子に安らぎを与えた。 彼とはまだ充分な会話を交わした仲ではないが、彼の母親の一言は、彼と心の底まで話し合ったような安心感を覚えたのである。
 ──プロポーズ? ?
 半信半疑の心の中に突如、しばらく使っていない「お母さん」と言う言葉がこみ上げてきた。 幸子はこの衝動を懸命に押さえながら、彼の温かい思いやりに満ち足りた気持ちで、彼の母の次の言葉を待っていた。         (完)