親父と息子
 後継者教育は小さい時から始めよ
 私の息子が本年(平成六年)大学四年に進学した。卒業したら私の会社に入社する予定である。
 本人には小学生の頃から
 「うちは三人姉妹だけれど、男は高志一人だから、高志がお父さんの後を継ぐんだよ」
 と言って聞かせて来た。
 小さいときは素直にその言葉を思い込んでいたようであるが、大学生ともなるといろいろ考えることも出て来るのであろう。しかし今では父の会社に入社して頑張ろうとの決心はついた模様だ。
 それは本人にとっては親の会社に入社することは、社長の息子ということで社内、社外から常に注目され、話題にさらされる立場になるので、一番厳しい環境に飛び込むことになるのである。
 大阪の池田金属の池田社長は、私共兄弟の兄的存在である。二人の息子さんが東京の大学を卒業するまでは私が身元保証人を引き受けていたが、二人とも一度も問題を起こさぬ代わりに卒業まで一度も成績表など持って来た事などなかった。
 私は池田さんの息子さんにも私の息子にも言ってきたことなのだが
 「何も大蔵省へ入って高級官僚を目指せとか、超一流企業に入社してエリートになれというのではない。親の会社に入社して親を手伝うのであれば、勉強は落第せぬ程度で、クラブ活動とか友人との付き合いを大切にしたほうが身につくぞ」
 池田社長は長男が卒業したら数年どこかの企業に出そうか迷っておられた。顔の広い方だから相談すれば二つ返事で引き受けてくれる大手企業もあり、またそれを勧める知人もおられるようであった。
  
子供は親の背中を見て育つ 
 私は社長に
 「息子さんを修業に出すより、社長の手元で教育するのが一番ですよ。子供は親の背中を見て育ってきているし、それに今の大学生はアルバイトで結構世間を見ていますから、わざわざ修業に出すことはないと思います。本人にとっては親の会社に勤務することが一番厳しいはずですし、それを覚悟で入社するでしょうから、本人にとって、一番の勉強ですよ。今の時代、外に出した方が楽ができる時代なのです」
 と申し上げたのであった。
 今では兄弟二人、実に息の合った連携プレーで社業を発展させているのである。
 世間には自分の息子に自分の会社を継いでもらいたいと思っているのに、照れもあるのであろうが
 「息子が私の後を継いでくれるかどうか分りませんよ。第一うちのような零細企業に入社したら苦労するだけですからね。息子には息子の人生がありますから」
 と、本心でないことを言う中小企業の社長さんが意外と多いのである。たとえ冗談であっても息子の前では絶対に言ってはいけない言葉だ。もし父がこう話しているのを聞いたら、息子さんが
 (親父は俺をアテにしていないのか、それでは俺は俺の道を歩かねばならない)
 と考えるのは当然である。
 中小零細企業と自分で決め付けることは全くないのだ。たとえそうだとしても現在までの基礎を最初から作るとなれば大変なのである。後は息子さんと相談し、協力を得て社業を伸ばす方法は幾らでもあるだろう。
 矢内は私の会社から川越で独立し、、奥さんと二人で頑張ったものだから、今では店舗付き住宅も買い取ることが出来て、さらにコツコツと固く営業を続けているのである。
 しかし悲しいかな店員が育たない。通勤が不便と言うこともあるのだが、給料を高くしても居着かない。子供は女の子と男の子がいるから、男の子が成人したらぜひ自分のパートナーになってもらいたいという希望を持っていた。
 ある時私が彼の店に立ち寄ると、彼が私に
 「息子が大きくなったら、私と一緒に働いてくれると有り難いのですが、こんな小店では本人がその気になってくれるか、心配なのです。一緒に働けと言うのは無理ですよね」
 「何を言うのだ。奥さんと二人でここまでの基礎作りが大変だったと思う。これからは全く新規にはじめてこれまでにするには、この先ますます難しい時代となるのだ。幸い息子さんは中学生になったばかりだ。間違っても息子さんの前では今のような話しをしてはいけない。息子さんが大きくなったら、お父さんと一緒に仕事をしよう、そしてこの店を将来、こうしよう、ああしよう、と夢のある話しをすればいい。必ず息子さんはお父さんの気持ちを理解してくれますよ」
  
コンプレックスを持たせない  
 家族で仕事をした時、一番注意しなければならぬことは、家の仕事だから家族は我慢しろ、という言葉を吐くことである。他に社員が何人もいるのなら兼ね合いと言うこともあるが、奥さん以外の社員一号が息子の場合は、同年の友人より給料を良くし、仲間と比較したときにコンプレックスを持たせないよう注意すべきである。
 その他、就業時間をルーズにしないこと、中学生のうちから仕事を手伝わせ、必ず時給 幾らのアルバイト料を支払うことなどを注意したのであった。
 彼の息子さんは高校三年になると
 「僕は大学へ行かずにお父さんの仕事を手伝うよ」
 と言ってくれたのである。あのバブルの最盛期で我々の業界では高校新卒の男子など全く望めぬ時代に、彼の息子は自分で決心してくれたのであった。
 今から四十年も昔は、親が何か事業をしていれば、大きくても小さくても子供として親の仕事を手伝うのは当たり前という時代であった。大学を卒業し、親の会社へ入社する前に数年、どこかの大手企業で修業すると言うのは、中小企業の中でも大手の部類に属する会社なのである。
 零細企業の子供は、成人しなくても働けるようになれば、真っ黒になって親の仕事を手伝うのが当たり前で、我々はこれに何も疑問を持たなかったのであった。
 商人の子供は商業学校を出て親の後を継いで商人に、また、工場や大工の息子は工業学校を出て親の工場や建築現場から叩き上げる。親の勤務する工場に息子も就職し、親子二代の腕の良い職工さんなどは、四十年三十年前にはよくあった話なのである。
 商人も物を売るという技術に関しては、物を作る職人と同一視され、修業に出すと言う言葉は職人の世界に存在した言葉であったのだ。
 それがいつの日にか、自分の子供には教育を受けさせて、学歴のないものの悲哀を味あわせぬようにとの親心が、どうも社会構造を変えてしまった。
  
商人が工場経営
  私の父は商人であったが、戦争中、友人の鉄工場を手伝い、商人が人の心をつかむテクニックを工場運営に応用したのが成功し、工場全体が父の元に一致団結し、大変な成果を収めたのであった。
 何も特別なことをしたのではない。戦争中の殺伐とした時代にも常にユーモアを忘れず職工さんと対等な立場で話し合い、相談に乗っただけであった。不幸にしてその鉄工場は戦災で全焼してしまい、仕方なく会社は解散したのであった。
 終戦後、私の父は仲間と丸ビルの中に事務所を置き商事会社(テイの良いヤミ屋)を経営していたのである。進駐軍の兵士達があらゆる物資を担ぎこんできたらしい。私の父は努力家であったから、私の中学校の英語の教科書を勉強し、取引の会話は充分であったと言う。
 これで金回りが良かったものだから、戦争中の鉄工場の職工さんたちが何とか工場をつくってほしいと頼って来た。父は人に頼まれると 「いや」 と言えない性格だから、道楽の積りで目黒の地にプレス工場を建てたのであった。
 工場を操業するにはまず仕事の確保が先決である。父の友人にタイプライター会社の役員がいた。この人に相談に行くと
 「そういう話なら協力してあげよう。うちにはプレス機械の遊休機械が沢山あるから、五,六台なら好きなものを無償で出してあげる。仕事のほうも三人くらいの量なら心配しなくていい」
 と言われ、喜んで小物部品のプレス工場を完成させたのである。
 ところが、やっと軌道に乗りだしたところでこのタイプライター会社で労働争議が勃発した。戦後の組合運動が強く激しい時代であった。首切り反対の争議である。結果は
 下請けに仕事を出して社員の首切りをするのは許せぬ。下請けによる外注加工を全面的にとりやめ、内作に切り替えて首切りはするな!」
 との要求が通り、父の工場への発注が全くストップしてしまった。
 仕方がない。街の拾い仕事で続けたが、一次下請けの単価とは違い、孫請け、曾孫受けの単価では仕事にならない。とうとう職人も音を上げて逃げ出してしまった。父は知人の紹介を受け、次の職工を工場に連れてきたところ
 「私はプレス工ではないのです。私は旋盤工ですからこのような機械は使えません」
 私の父は職工と名のつくものはどんな機械でも使いこなせるものと思い込んでいたのである。
 「それでは君の専門の旋盤という機械を設備すれば良いだろう。仕事は心配せんでも私が見つけてくる。君は機械を探してくれ」
 父の営業力は大したものであった。ある大手の電動モーターのメーカーから軸受けメタルの加工の仕事を取ってきた。
 当時の電動モーターの軸受けメタルは材質が砲金で出来ていた。砲金は鉄より加工しやすく真鍮より高い材料だから、この加工クズも高く売れ、大変な利益が出た。まして戦後の復興期であった。電動モーターは飛ぶように売れ、政府管理の割り当て販売であったのだ。しかし日本の技術も日進月歩であった。
 二年もすると、軸受けメタルは砲金でなく鉄の鋳物でも潤滑油を切らすことなく供給すれば問題はないということが判明した。当然加工しにくい鉄であるから、加工賃は高くなるのが当たり前なのであるが、戦後初のなべ底の不景気で、安く加工する競争相手が出現し、工賃が半減してしまった。
 私の父は仕事となると寝食を忘れて熱中するタイプなので、これまでにも健康を損ねて入院するということが何度かあったが、商事会社と工場の二足のワラジではまたまた、健康を害して入院することとなった。三ヶ月ほどして退院したときは、他の二人の共同経営者がそれぞれ独走してしまい、手が付けられない状態となっていた。自然、父は工場経営に専念するようになったのである。
 工場に残っていた職工さんの中にターレットという機械を扱える人がいた。彼が父にターレットの導入を進言したのである。昔のターレットという機械は手を使う、足も使う、見方によってはそれは派手な機械であった。
 「この機械なら儲かるだろう」
 父はこの機械に惚れ込んだ。父の性格に合致したのである。そして8台の機械のうち、6台をターレットに切り替えたのであった。
 こんな状態では町工場は成り立たない。工場の責任者が替わるごとに機械を入れ替えていたのでは資金が追いつかないのだ。
 「身内に機械を扱えるものがいないから、こういう結果になるんですよ」
 父は友人からも意見された。私は八人兄弟姉妹の長男であるから、家業を継ぐのは当然と、高校卒業と同時に父の町工場へ入社したのであった。
 私は父の町工場で六年間、ターレットや旋盤やその他の機械を扱ったのであるが、あることがきっかけでネジの商売へ転身したのである。しかしこの六年の経験が商売へ移ってから大変役立つことになったのであった。
 私の父は根が商人であったから私は小さい時から商人的に教育されて来たように思う。だからネジを売って歩くようになっても全く違和感はなかったし、逆に天職に到達したと感じたのであった。
 今、私の父を思い出して、私の父は偉かったなと思うことがいくつかある。そして息子を後継者として教育するには、こうすべしという要件が思い当たるのである。

 
 第一 社外に息子を連れて歩け
 私の父は私が小学生の頃より一年に二度か三度であったが、取引先へ私を連れて歩いた。今、考えると何も教育の目的で連れて歩いたのではなかったと思う。
子供が多かったから母の手を少しでも楽させようとのことだと思うが、他のことは忘れてもその時の光景は今でも鮮明に覚えている。これが親の背中を見て育つと言うことであろう。
 父と一緒に仕事をするようになってからは、いろいろな会合に私を一緒に参加させた。もちろん会費は二名分払うのである。私を参加させるために近所の人たちと下目黒親興会という親睦会まで作ったのである。その他、講演会や不良債権が発生じての債権者会議。そして父はその席で必ず発言するのだ。
 「私は初めの頃は、その父を「大したものだ」 と感心し、私も父のように発言することが出来るようになるだろうかと思ったものだ。ところが実社会に出て、いろいろ経験してくるとだんだん生意気となり
 「親父、なにを下らぬ質問をしているのだ」
 と、思うようになって来た。生意気さがさらに進んでくると、債権者会議などでは
 「お父さん、僕が代わって質問するから」
 と発言し、他の債権委員の人たちから
 「お父さんより息子さんの意見の方が、よっぽど厳しい」
 などと言われた。今、思えば、冷やかされているのも知らず得々としていたのだなと思い出され、顔が赤らむ思いがする。
 近年、いろいろな会合で
 「息子さんとご一緒に参加されてはどうですか?」
 「いやいや、うちの息子は、まだまだ」
 と言う社長が如何に多いことか。こういう社長さんは会合の帰りに自分の遊んでいる姿を息子に見られたくないのである。
 江戸川にいる私の義兄は、妻子のいる専務(息子)と常務(息子)と一緒にソープランドまで行っている。仕事と遊びは別としているからだ。これは多少行き過ぎだが、自分の遊びを息子に見せられぬようでは信頼関係は生まれないのだ。

 
 第二 息子には頑固親父であれ
 私の父はまず頑固親父であった。世間には温厚な人、物分りの良い人で通っているし、私にも良いとこもあるのだが、まず私の言うことは一回では絶対と言っていいくらい、聞いてくれない。作業性を良くするために、こういう物又は機械を買いたい。世間の給与ペースがこうなってきたから社員の給与(当時は二人か三人)を不満が出る前に改定したい。車が古くなったから買い換えたい。まず相談して一回でOKは出ないのだ。だから何か事を起こす時には父を如何に説得するかが私の重大な課題であった。
 「こういうことをやりたいが、これをやるには一、二、三点の問題があるから止めようと思う」
 と、相談すると
 「若い者が何を言っているのだ。それだけ問題点がわかっているのなら、そんなことは乗り越えて行け」
 ということになり、この手法はよく使ったものである。
 私は今、難しい問題に突き当たったとき
 「おれはあの頑固親父を説得してきたんだ」
 との経験が大きな支えとなっている。
 私の父は外に向かって何か事を起こすとき、よく根回しと言う言葉を使い、誰と誰には事前に相談すると言う経緯を踏んだのである。若い私は何でそんな回りくどい道を踏まねばならぬのかと反発したものだが、この歳になると時と場合によっては必要なことなのだということが分ってくるのである。

 
 第三 親は時々入院すべし
 私の父は神経痛だ、足の骨折だ、肋膜炎から肺炎を併発したり、晩年には心臓に欠陥を生じ、入退院を繰り返した。最初の頃は私も青くなり、父が死んだらどうしようかとウロウロしたものだが、二度、三度ともなると私も度胸が据わり、社内改革のチャンスとばかり実行したのであった。
 父は入院するときは明日をも知れぬと言う状態で入院するのであるが、驚異的回復力で二、三ヶ月で退院してくるのである。医者自身が自分はそんな名医でないと分っているものだから、患者の回復が信じられない。だから退院許可を出さないのだが、すると医者と喧嘩をして出てくるのである。だから二度と同じ病院へは入院できない。
 四度目か五度目のときは歩いているとき心臓発作を起こし、阿佐ヶ谷の個人病院へ担ぎ込まれた。院長先生の診断は絶対安静で最低でも一年、場合によっては二年から三年の入院加療が必要との事であった。
 ところが、いつものように、二ヶ月くらいでいつものような回復をしてしまった。そろそろ病院の先生とトラブルを起こすぞと思っていたら、案の定、院長先生から私にすぐ来てくれと電話が掛かってきた。そして私に重大なことを告げるのだという態度で
 「あなたのお父さんは心臓ばかりでなく脳軟化症のほうも相当進んでいますよ。このまま退院させたら息子さんあなたが大変な思いをしますよ。だから退院させるわけには行かないのです」
 「先生、父がまた、そんな我が儘を言い出しましたか? それを言い出したときはもう退院できる時期なのです。今までに一度や二度でなく四、五回同じ事を繰り返しているのですから。しかし二ヶ月弱と言うのは今までの最短記録の部類で、先生の処置が全く適切だったのだと思います。本当に有り難うございました」
 「えっ、! 四、五回もですか……」
 先生は目をまん丸に見開くと、後は言葉が出てこなかった。恐らくこの先生は、これは親父ばかりでなく息子も脳軟化症の重症だと思ったことだろう。

  
父とは生涯のライバル
 しかしこの後、父が出社してからが大変であった。私は、父が心臓での入院も四、五回目だし、特に今回は少なくとも一年は入院だろうと思っていたので、今までのような小出しの改革でなく、それまで考えていたことを一挙に実行したのであった。
 父はそれが気に食わない。自分をないがしろにしたというのである。父の株式会社 共栄製作所を解散し、株式会社ネジのヤマザキを設立したときは、将来を考え、息子の私が代表取締役で登記したのであるが、父が毎日出社しているので、父を社長と呼び、私は専務と称していた。父の気持ちは━━登記はどうあれ、株式の51パーセントを握っている親を無視する息子は許せぬ。会社に置くわけにいかぬから出て行け━━と言うのだ。
 「私もこの歳まで青春を棒に振って(結構、青春は楽しんできたが) 家業のために犠牲になって来たのです。今更、辞めろと言われても、ハイわかりましたと出てゆくわけにはいきません。私が気に入らぬのなら、お父さん、あなたが出て行ったらどうですか」
 「よしわかった。お前の本心はそこにあったのがよくわかった。俺が出てゆくが、この問題はいずれ持ち株の比率で決着をつける」
 と言い残して会社を出て行ってしまった。夜、浜田山の自宅には帰ってくるのだが、昼間どこで何をしているのか一切言わない。一ヵ月半ほど経った頃、父から電話が掛かってきた。
 「ネジの注文を併せて取ったから、持ってゆくように」
 と言うのである。指示された会社へ品物を持参して初めて、父が渋谷の内装工事の会社で営業として働いていることを知ったのである。
 それから一ヶ月ほど過ぎたある日、私は父が勤務している会社に手土産を持って社長を訪ねた。
 「いろいろお世話になっていながら挨拶が後れて申し訳なく思っておりました。実は父を迎えに参りましたのでよろしくお願いいたします」
 と、事情を説明したところ、社長さんは大笑いなされて
 「そんな事情があったのですか。普通の人とは違うし、何か事情のある人なんだろうと、みんなにも大事にするように言っていたのです。今時、珍しく骨のある人であなたも幸せですね」
 幸せかどうだか、全く……。だが父は
 「頭を下げて迎えに来たのなら帰ってやるか」
 と言って戻ってくれたのであった。
 私は父が三十三歳のときに生まれた長男である。私の上には姉が二人おり、私の息子の高志は私が四十歳のときに生まれているから、同じ姉二人の長男でも歳に七歳の差があるのだ。父が今の私の年齢のときには私はすでに二十九歳でネジの商売の道にも入り、どうにか素人のねじ屋より脱却しつつあった。
 いつの間にか私も息子が自分の会社に入社する歳が近ずき、昔を思い起こすと感慨深いものがある。              平成7年6月 記

  
(後記)
 息子が入社して二年が過ぎた。幾ら自分の手元で教育したほうが良いなどとえらそうなことを言っても、やはり手元には置きずらい。目黒と埼玉の営業所は始業が九時であるが、横浜は入・出荷があるので、八時三十分の始業である。目黒勤務であれば九時の5分前に家を出れば間に合うのであるが、七時出発の横浜へ二年間通勤した。大学在学中は、夏休み、冬休みにはアルバイトで通っていたが、アルバイトと社員の違いも自覚できたようである。
 この辺で他社で修業し、親の会社の良し悪しも比較勉強してもらいたい。会社の幹部とも相談しあまり付き合いの長い会社以外のほうが良かろうと本人に伝えたところ
 「社命であればどこえでも行きます」
 との返事である。
 大阪のある商社にお願いしたところ快く引き受けてくださった。社長さんが、
 「一年では短い。三年では長い。二年が適当でしょう」
 私共の意見と全く合致した。
 私は息子が大阪で浪花のユーモアのある話術を身につけて帰ってほしいと願っている昨今である。                   平成十年6月 記