手稲金山物語
開かずの間
札幌から列車で小樽方面へ向かって行った六つ目に手稲駅がある。 手稲は札幌冬季オリンピックで大滑降の会場となった手稲オリンピアのスキー場があることで有名なのだ。
この手稲駅より徒歩7・8分の林の中に旅館みどりが平成5年まで存在した。 林の中の山荘のような旅館で、利用客は二・三ヵ月の長期出張の社員が1・2名、その他にたまに行商に来る商人が泊るくらいでいつも閑散としていた。 だからこういった人達が使う部屋は粗末な木造平屋の六畳間が6室ほど続いた建物で正に木賃宿と言う感じであった。 ところが母屋の二階に「開かずの間」があり、それは
十六畳の座敷に次の間付きの本格的な書院造りであり、欄間の彫刻といい、床の間に使われている銘木といい、贅を尽くした造作は目を見張るような部屋が実在していたのである。
昭和の初期は北海道の経済の中心は札幌より小樽にあったのではあるが、それにしても田舎町の手稲になぜ、贅を尽くしたこのような建物が存在したのであろうか? その訳は、昭和の初期、手稲山に突如として起きたゴールドラッシュが原因であった。
金鉱がある筈だ
大正から昭和にかけて札幌に広瀬省三郎という鉱山師がいた。 彼は鳥矢部弥平次が明治二十八年頃、手稲山で金の鉱石を発見したという文献を読んだのである。 手稲山は奥が深い。 広瀬省三郎は手稲山の沢や川を調べたところ確かに砂金が見つかった。これは何処かに必ず金鉱がある筈である。
彼は十人の鉱夫を雇い、手稲山に山ごもりして金の探鉱に入ったのであった。
大正から昭和初期の手稲山の探鉱は想像を絶する苦労であったという。 昭和四年の頃であったが、北大の学生が失恋の痛手を負って世を果敢なみ、手稲山で死ぬと遺書を残して失踪した。 両親がビックリして手稲の青年団へ救助を求めてきたのである。
旅館みどりのご当主は当時、青年団の一員であり人命に拘わる問題なので直ちに捜索隊に加わり、晩秋の手稲山へ分け入ったのである。 その時、手稲山の山奥に木立を切り倒した丸太と木の枝で囲った小屋に住みながら金鉱の探鉱を続けている山男に出会ったそうである。 この北大の学生は残念ながら救助することは出来ず、翌年の春、雪解けの沢で発見されたとのことであった。
命の瀬戸際
昭和七年 広瀬正三郎が手稲山へ探鉱に入山してから早や十年が経過した。
十名いた鉱夫は一人減り二人去りして五人に減っていた。 札幌の広大な居宅の土地、建物にはガンジガラメに抵当がついてしまった。 質屋通いの果ては家のタンスの中には着物一枚残っていない状態に追い込まれたのである。
この進退極まり、探鉱している穴の中でのたれ死にをせねばなるまいかと覚悟をした時に広瀬省三郎は、遂に有望な金鉱脈を掘り当てたのであった。
月給二十円はなかなか貰えない時代であった。 彼は10万円の金を使い尽くしていた。 もうこの有望な金鉱を開発する余力はない。
広瀬省三郎は着の身着のまま、皮袋に入れた金鉱石を抱えると秋田の小阪鉱山へ走ったのである。 気の狂った浮浪者の姿で、目だけが異様に光っていたという。
広瀬省三郎もひとかどの鉱山師であった。 小阪鉱山の社長とは面識がありお互いの実力を認めあっている間柄であったのである。 守衛は狂人扱いで社長への取次ぎを拒否した。 小阪鉱山の社長は偶然、二階の社長室の窓より守衛の争いを見るともなしに見ていた。 社長はこの男が広瀬だと確認するや、この男は大変なことを仕出かしてここへ来たと見抜いたという。 彼は、はだしで社長室を飛び出すと、泥だらけで着の身着のままの男の肩を抱くようにして
「良く来てくれた。 良く来てくれた。 もう心配ない。 俺が付いている」
と言ったのである。 広瀬は震える声で
「こ 小阪さん……」
と言っただけで後は口が渇いて言葉が出てこなかった。 小阪社長は広瀬の肩を抱きかかえるようにして社長室へ招き入れたのである
社長室に入った広瀬は小阪社長の胸に顔を埋めて号泣した。 小阪社長はその広瀬を抱きかかえながら彼の背中を優しくさすってやったのであった。
やがて広瀬は涙声で
「小阪さん、私の骨を拾ってやって下さい」
と言いつつ金鉱石の入った皮袋を差し出したのである。
山奥に四千人の町
小阪鉱山では彼が抱えてきた鉱石を調べ、直ちに調査団を派遣した。 金本位制の時代である。 金がなければ貿易も出来ない時代であった。 金鉱開発は国家的事業でもあった。 短期間で調査を終えた小阪鉱山は、無条件、即金百万円で権利を広瀬省三郎より買い取ったのである。 当時の百万円は一生遊んで食っていける金であったと言う。 百万長者と言う言葉があったくらいで現在の五十億円くらいの価値があったのであろうか。
ところが開発を進めた小阪鉱山はこの金鉱があまりにも有望すぎて手に負えなくなって来た。
小阪鉱山は三菱金属に援助を申し出て、三菱金属は調査を終えて、昭和八年にこの金鉱を一千万円で小阪鉱山より買い取ったのであった。 これより三菱金属の大投資が始まるのである。 例年になく酷暑の続く夏であった。
昭和八年から九年にかけて三菱は一千万円から二千万円の大投資を行った。
鉱夫一千人、管理職から鉱夫の家族を併せると、四千人の町が山奥に突如として出来たのである。 今でも山の中に、ホテルや学校、社宅などがそのまま残っている。 もっとも危険防止のため、道路は遮断されており、入ることが出来ない状態となっている。
俺達は別格だ
この湧き上がるようなゴールドラッシュのお陰で手稲の料理屋みどりは大繁盛したのである。 昭和八・九年頃の料理屋の料金は一人前の料理が三円位が普通の料理であった。 一人前五円の料理の注文が出ると、どんな料理を支度したらよいかと頭を痛めた時代である。 それなのに手稲鉱山の人達は一人前二十円の料理を揃えろと言うのである。 二十円の料理と言われても昔のことだ。 外国の珍しい材料を使うわけでもない。 魚は近くで良いものがいくらでも取れる。 特別な料理と言われても揃えようがない。 とりあえず、品数を増やすだけで結局は五円と大差のない料理となってしまうのであるが、それでも鉱山の人達は
「俺達は一人前二十円の料理を食っているんだ」
と満足していたと言う。
この金山の人達は夜と言わず朝でも昼でも時間を定めず押しかけて来て、座敷が一杯になると
「酒が飲めれば廊下でも良いから」
と廊下にお膳を並べるといった状態であった。
昔の金価格
昭和八年頃は金一匁(3.75グラム)五円か六円であったという。 一グラム一円三十銭から一円六十銭くらいであったのだ。 又、金の採掘では採掘した鉱石より十万分の二から三の金を産出すれば採算が取れたという。 即ち、金鉱石一トンより二十グラムから三十グラムの金が採れれば商売になるという時代であった。
それなのに手稲鉱山は他の十倍の十万分の二十から三十、即ち金鉱石一トンから二百グラムから三百グラムの金を産出した。 特に、昭和十三年から十四年にかけて発見された鉱脈は一トンの鉱石から実に十キロから二十キロの金が取れたという。 正に百分の一から二という驚異的な数字であったのだ。
この位の鉱石になると金が岩石に付着しているのが肉眼で見えるという。 鉱山の人達が浮かれ上がるのも分かろうというものだ。
金は人間を狂わせる。 作業員は坑内から出て来ると厳重な身体検査を受けるのであるが、その目を盗んで鉱石を持ち帰る者がいた。百分の一から二の鉱石になると自宅で、ふいごと硫酸で金を分離できる。 こうして不心得者が金の延べ棒を作って売却するという事件が発覚した。
坑内から出てきた作業員はまず風呂へ入れられた。 風呂の入り口と出口は違うのである。 出口の先には深い水槽があり、この水槽を手を広げて万歳をしながら顔を下に向けて大声を出しながら大またで渡るのだ。 人間裸で隠せる場所といえば尻か口である。 風呂で体が温まっていると筋肉が緩んでいるから、水槽を大またで渡ると金鉱石は重いから、ポトリと水槽の中へ落ちるという。 口の中も喉で止まっている物は下を向いて大声を出すと出てきてしまうものだそうだ。
これまでしても、持ち出す者がいたのだから、人間の欲と知恵は素晴らしいとしか言い様がない。 恐らく現代なら金属探知機をおなかに当てたら反応の音を出していただろう。 又、一キロぐらいの金鉱石を飲み込んでも平気だという特異体質の男も事実いたらしい。
テレル鉱山と戦争
その頃、北海道博覧会が開かれ、この呼び物としてアメリカよりテレル夫人という大女が来道した。 体重百数十キロの巨体は客車の乗車通路より乗ることが出来ない。 止むなく花で飾った貨車に乗せたという。 手稲鉱山はこのテレル夫人にちなんでテレル鉱山と呼ばれたのであった。
それには、手稲鉱山のビッグさもさることながら、この博覧会に展示された手稲鉱山の鉱石が素晴らしく、岩にたっぷりとついた金の鉱石を、これまたテレル夫人が大好きで、いつもこのそばに立って愛嬌を振りまいていたからである。
手稲鉱山は金鉱石の他に硫化鉄と銅を産出した。 戦争中、軍の管理下に入った手稲鉱山は金鉱石より、鉄・銅の生産の至上命令を受け乱掘により鉱脈をすっかり荒らしてしまった。 整備するのに大変な金が掛かるため、終戦を境にかくも栄えた手稲鉱山は閉山となったのである。
鉱山というものは採鉱と同時に、次のステップの探鉱を、平行して行うものだそうだ。 この探鉱は採鉱以上に金が掛かる。 戦争中、特に戦況が悪化してからは探鉱になどに金を使ってなどいられない。 先ず、あるものを掘り尽くせとの軍の命令で乱掘し、再起不能となってしまったという。
現在でも掘れば金が取れるのであるが今は金の建値が安いので採算が取れぬという。
一流に近ずけぬもの
料理屋というからには、酒に芸者は付き物である。昭和十四年手稲鉱山の隆盛に合わせて料理屋みどりも発展し、場末の芸者では座持ちが出来なくなって来た。
手稲鉱山の幹部の人達も全国的に有名になると日本各地で招待もされるし、出向くようにもなる。 戦前の日本の習慣であれば出掛けた先では必ず宴会だ。 すると自分の地元と比較するようになる。 家具や調度品・什器備品その他もろもろは金さえ出せば一流に近ずくことが出来るが、いくら金を掛けても、どうしても即座に一流に達しないものがあった。 何とそれは「女」なのであった。
超一流を求める手稲鉱山の幹部の要求で、東京の柳橋より芸者小春が手稲の料亭割烹みどりに移ってきたのである。 まだ封建思想が色濃く残る花柳界であった。 ある周旋屋の斡旋で証文一枚によって自分の意志に関係なく運命の変わる当時の芸者であった。
鄙びた田舎町の手稲駅に降り立った小春は、正に掃き溜めに降り立った鶴の形容がピッタリであったという。 その上、高ぶらぬ気立ての良さと、暇なときは女中と一緒になって拭き掃除までする態度は料亭みどりの小春の名を更に高めたのである。
美人薄命の運命の通り小春の命は手稲鉱山が閉山と決定すると、大輪の花が水を断たれて枯れ落ちるように、これという病名が無いままこの世を去ったのである
なお、小春と手稲とは不思議な運命のつながりがあったという事実が、小春の死後、みどりのご当主 萬田氏によって解明されたのであった。
この萬田氏も、平成五年、九十三才でこの世を去るとともに、旅館みどりの二階の贅を尽くした「開かずの間」も消えていったのである。 (完)


